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五十過ぎの男と顔の赤い娘とが向い合って、ひっきりなしに話しこんでいるばかりだった。肉の盛り上った肩に黒い襟巻を巻いて、娘は全く燃えるようにみごとな血色だった。胸を乗り出して一心に聞き、楽しげに受け答えしていた。長い旅を行く二人のように見えた。

ところが、製糸工場の煙突のある停車場へ来ると、爺さんはあわてて荷物棚の柳行李をおろして、それを窓からプラットフォウムへ落しながら、

「まあじゃあ、御縁でもってまたいっしょになろう」と、娘に言い残して降りて行った。

島村はふっと涙が出そうになって、われながらびっくりした。それで一入、女に別れての帰りだと思った。

偶然乗り合わせただけの二人とは夢にも思っていなかったのである。男は行商人かなにかだろう。

蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。来てみるといかにも、宿の部屋の軒端に吊るした装飾燈には、玉蜀黍色の大きい蛾が六、七匹も吸いついていた。次の間の三畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまっていた。

窓はまだ夏の虫除けの金網が張ったままであった。その網へ貼りつけたように、やはり蛾が一匹じっと静まっていた。檜皮色の小さい羽毛のような触角を突き出していた。しかし翅は透き通るような薄緑だった。女の指の長さほどある翅だった。その向うに連る国境の山々は夕日を受けて、もう秋に色づいているので、この一点の薄緑はかえって死のようであった。前の翅と後の翅との重なっている部分だけは、緑が濃い。秋風が来ると、その翅は薄紙のようにひらひらと揺れた。

生きているのかしらと島村が立ち上って、金網の内側から指で弾いても、蛾は動かなかった。拳でどんと叩くと、木の葉のようにぱらりと落ちて、落ちる途中から軽やかに舞い上った。

よく見ると、その向うの杉林の前には、数知れぬ蜻蛉の群が流れていた。たんぽぽの綿毛が飛んでいるようだった。

山裾の川は杉の梢から流れ出るように見えた。

白萩らしい花が小高い山腹に咲き乱れて銀色に光っているのを、島村はまた飽きずに眺めた。

内湯から出て来ると、ロシア女の物売りが玄関に腰かけていた。こんな田舎まで来るのだろうかと、島村は見に行った。ありふれた日本の化粧品や髪飾などだった。

もう四十を出ているらしく顔は小皺で垢じみていたが、太い首から覗けるあたりが真白に脂ぎっている。

「あんたどこから来ました」と、島村が問うと、

「どこから来ました? 私、どこからですか」と、ロシア女は答えに迷って、店をかたづけながら考える風だった。

不潔な布を巻いたようなスカアトは、もはや洋装という感じも失せ、日本慣れたもので、大きい風呂敷包を背負って帰って行った。それでも靴は履いていた。

いっしょに見送っていたおかみさんに誘われて、島村も帳場へ行くと、炉端に大柄の女が後向きに坐っていた。女は裾を取って立ち上った。黒紋附を着ていた。

スキイ場の宣伝写真に、座敷着のまま木綿の山袴を穿きスキイに乗って、駒子と並んでいたので、島村も見覚えのある芸者だった。ふっくりと押出しの大様な年増だった。

宿の主人は炉に金火箸を渡して、大きい小判型の饅頭を焼いていた。

「こんなもの、お一ついかがです。祝いものでございますから、お慰みに一口召上ってみたら」

「今の人が引いたんですか」

「はい」

「いい芸者ですね」

「年期があけて、挨拶廻りに来ましてな。よく売れた子でしたけれども」

熱い饅頭を吹きながら島村が噛んでみると、固い皮は古びた匂いで少し酸っぱかった。

窓の外には、真赤に熟した柿の実に夕日があたって、その光は自在鍵の竹筒にまで射しこんで来るかと思われた。

「あんな長い、薄ですね」と、島村は驚いて坂路を見た。背負って行く婆さんの身の丈の二倍もある。そして長い穂だ。

「はい。あれは萱でございますよ」

「萱ですか。萱ですか」

「鉄道省の温泉展覧会の時に、休憩所ですか、茶室を造りまして、その屋根はここの萱で葺きましてな。なんでも東京の方がその茶室をそっくりそのままお買いになったそうでございますよ」

「萱ですか」と、島村はもう一度ひとりごとのように呟いて、

「山に咲いているのは萱なんですね。萩の花かと思った」

島村が汽車から降りて真先に目についたのは、この山の白い花だった。急傾斜の山腹の頂上近く、一面に咲き乱れて銀色に光っている。それは山に降りそそぐ秋の日光そのもののようで、ああと彼は感情を染められたのだった。それを白萩と思ったのだった。

しかし近くに見る萱の猛々しさは、遠い山に仰ぐ感傷の花とはまるでちがっていた。大きい束はそれを背負う女達の姿をすっかり隠して、坂路の両側の石崖にがさがさ鳴って行った。逞しい穂であった。

部屋へ戻ってみると、十燭燈のほの暗い次の間では、あの胴の太い蛾が黒塗りの衣桁に卵を産んで歩いていた。軒端の蛾も装飾燈にばたばたぶっつかった。

虫は昼間から鳴きしきっていた。

駒子は少し後れて来た。

廊下に立ったまま、真向きに島村を見つめて、

「あんた、なにしに来た。こんなところへなにしに来た」

「君に会いに来た」

「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い」

そして坐りながら、声を柔かに沈めると、

「もう送って行くのはいやよ。なんともいえない気持だわ」

「ああ、今度は黙って帰るよ」

「いやよ。停車場へは行かないっていうことだわ」

「あの人はどうなった」

「むろん死にました」

「君が送りに来てくれた間にか」

「でも、それとは別よ。送るって、あんなにいやなものとは思わなかったわ」

「うん」

「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずいぶん待ったわよ。もうあんたの言うことなんか、あてにしないからいい」

二月の十四日には鳥追い祭がある。雪国らしい子供の年中行事である。十日も前から、村の子供等は藁沓で雪を踏み固め、その雪の板を二尺ぐらいに切り起し、それを積み重ねて、雪の堂を築く。それは三間四方に高さ一丈に余る雪の堂である。十四日の夜は家々の注連縄を貰い集めて来て、堂の前であかあかと焚火をする。この村の正月は二月の一日だから、注連縄があるのだ。そうして子供達は雪の堂の屋根に上って、押し合い揉み合い鳥追いの歌を歌う。それから子供達は雪の堂に入って燈明をともし、そこで夜明しする。そしてもう一度、十五日の明け方に雪の堂の屋根で、鳥追いの歌を歌うのである。

ちょうどその頃は雪が一番深い時であろうから、島村は鳥追いの祭を見に来ると約束しておいたのだった。

「私二月は実家へ行ったのよ。商売を休んでたのよ。きっといらっしゃると思って、十四日に帰って来たんだわ。もっとゆっくり看病して来ればよかった」

「誰か病気」

「お師匠さんが港へ行ってて、肺炎になったんですの。私がちょうど実家にいたところへ電報が来て、看病したんですわ」

「よくなったの?」

「いいえ」

「それは悪かったね」と、島村は約束を守らなかったのを詫びるように、また師匠の死を悔むように言うと、

「ううん」と、駒子は急におとなしくかぶりを振って、ハンカチで机を払いながら、

「ひどい虫」

ちゃぶ台から畳の上まで細かい羽虫が一面に落ちて来た。小さい蛾が幾つも電燈を飛び廻っていた。

網戸にも外側から幾種類とも知れぬ蛾が点々ととまって、澄み渡った月明りに浮んでいた。

「胃が痛い、胃が痛い」と、駒子は両手を帯の間へぐっと挿し入れると、島村の膝へ突っ伏した。

襟をすかした白粉の濃いその首へも、蚊より小さい虫がたちまち群がり落ちた。見る間に死んで、そこで動かなくなるのもあった。

首のつけ根が去年より太って脂肪が乗っていた。二十一になったのだと、島村は思った。

彼の膝に生温かい湿りけが通って来た。

「駒ちゃん、椿の間へ行ってごらんて、帳場でにやにや笑ってるのよ。好かないわ。ねえさんを汽車で送って来て、帰って楽々寝ようと思ってると、ここからかかって来てるって言うんでしょう。大儀だからよっぽど止そうと思ったわ。昨夜飲み過ぎた。ねえさんの送別会だったの。お帳場で笑ってばかりいて、あんただった。一年ぶりねえ。一年に一度来る人なの?」

「あの饅頭を僕も食ったよ」

「そう?」と、駒子は胸を起した。島村の膝に押しつけていたところだけが赤らんで、急に幼なじみた顔に見えた。

次の次の停車場の町まで、あの年増芸者を見送って来たのだと言った。

「つまらないわ。前はなんでもすぐ纏まったけれど、だんだん個人主義になって銘々がばらばらなの。ここもずいぶん変ったわ。気性の合わない人が殖えるばかりなの。菊勇ねえさんがいなくなると、私は寂しいんです。なんでもあの人が中心だったから。売れることも一番で六百本を欠かすことはないから、うちでも大事にされてたんだけれど」

その菊勇は年期があけて生れた町へ帰るというが、結婚するのか、なにか水商売を続けるのかと島村が問うと、

「ねえさんも可哀想な人なの。お嫁入りは前に一度失敗して、ここへ来たのよ」と、駒子はその後を口籠って、とかくためらってから、月明りの段々畑の下を眺めて、

「あすこの坂の途中に、建ったばかりの家があるでしょう」

「菊村って小料理屋?」

「ええ。あの店へ入るはずだったのを、ねえさんの心柄でふいにしちゃったんだわ。騒ぎだったわね、せっかく自分のために家を建てさせておいて、いざ入るばかりになった時に、蹴っちゃったんですもの。好きな人が出来て、その人と結婚するつもりだったんだけれど、騙されてたのね。夢中になると、あんなかしらね。その相手に逃げられたからって、今から元の鞘におさまって、店を貰いますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地にはいられないし、またよそで稼ぎ直すんですわ。考えると可哀想なんだわ。私達もよく知らなかったけれど、いろんな人があったのね」

「男がね。五人もあったのかい」

「そうね」と、駒子は含み笑いをしたが、ふっと横を向いた。

「ねえさんも弱い人だったんだわ。弱虫だ」

「しかたがないさ」

「だってそうじゃないの。好かれたって、なんですか」

うつ向いたまま簪で頭を掻いた。

「今日送って行って、せつなかったわ」

「それでせっかくの店はどうしたの」

「本妻が来てやってるわ」

「本妻が来てやってるとは面白い」

「だって、開業の支度もすっかり出来てたんですもの。そうでもするよりしかたがないでしょう。子供もみんなつれて、本妻が移って来たわ」

「うちはどうしたんだね」

「お婆さんを一人残してあるんですって。百姓なんですけれど、主人がこんなこと好きなのね。それは面白い人」

「道楽者だね。もういい年なんだろう」

「若いのよ。三十二、三かしら」

「へええ。それじゃ本妻よりお妾さんの方が年上になるところだったね」

「おない年の二十七ね」

「菊村というのは、菊勇の菊だろう。それを本妻がやってるのかね」

「一度出した看板を変えるわけにもいかないからでしょう」

島村が襟を掻き合わせると、駒子は立って行って窓をしめながら、

「ねえさんはあんたのこともよく知ってた。いらしたわねって、今日も言ってくれた」

「挨拶に来てたのを帳場で見かけたよ」

「なんか言った」

「言やしないよ」

「あんた私の気持分る?」と、駒子は今しめたばかりの障子をさっとあけて、窓に体を投げつけるように腰かけた。島村はしばらくしてから、

「星の光が東京とまるでちがうね。いかにも宙に浮いてるね」

「月夜だからそうでもないわ。今年の雪はひどかったわ」

「汽車がたびたび不通だったらしいね」

「ええ、こわいくらい。自動車の通うのが、例年より一月も後れて、五月だったわ。スキイ場に売店があるでしょう、あの二階を雪崩が突き抜けて、下にいた人はそんなこと知らなくて、変な音がするから、台所で鼠が騒いだんだろうと行ってみてなんともないから、二階へあがると雪だらけじゃないの。雨戸もなにも雪に持って行かれちゃってるのよ。表層雪崩なんだけれど、それをラジオで大きく放送したものよ。恐ろしがってスキイ客が来やしないの。今年はもう乗らないつもりで、去年の暮にスキイも人にくれちゃったのよ。それでも二、三度辷ったかしら。私変ってない?」

「お師匠さんが死んで、どうしてたんだ」

「ひとのことなんか、ほっときなさい。二月にはちゃんとここへ来て待ってたわ」

「港へ帰ったんなら、そうと手紙をよこせばいいじゃないか」

「いやよ。そんなみじめな、いやよ。奥さんに見られてもいいような手紙なんか書かないわ。みじめだわ。気兼ねして嘘つくことないわ」

駒子は早口に叩きつけるような激しさだった。島村はうなずいた。

「あんたそんな虫のなかに坐ってないで、電燈を消すといいわ」

女の耳の凹凸もはっきり影をつくるほど月は明るかった。深く射しこんで畳が冷たく青むようであった。

駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかであった。

「いや、帰して」

「相変らずだね」と、島村は首を反って、どこかおかしいようで少し中高な円顔を、真近に眺めた。

「十七でここへ来た時とちっとも変らないって、みんなそう言うわ。生活だって、それはおんなじなんですもの」

北国の少女の赤みがまだ濃く残っている。芸者風な肌理に月光が貝殻じみたつやを出した。

「でも、うちは変ったの御存じ?」

「お師匠さんが死んでね? もうあのお蚕さんの部屋にはいないんだね。今度のうちほんとうの置屋かい?」

「ほんとうの置屋って? そうね、店で駄菓子や煙草を売ってますわ。やっぱり私一人しかいないの。今度はほんとうの奉公だから、夜晩くなると、蝋燭をともして本を読むわ」

島村が肩を抱いて笑うと、

「メエトルだから、電気を無駄づかいしちゃ悪いわ」

「そうかね」

「でも、これが奉公かしらと思うことがあるくらい、うちの人はずいぶん大事にしてくれるのよ。子供が泣いたりすると、おかみさんが遠慮して表へ負ぶって出て行くわ。なんの不足もないけれど、寝床の曲ってるのだけはいやね。帰りがおそいと敷いといてくれるのよ。敷蒲団がきちんと重なってなかったり、敷布がゆがんでたりでしょう。そんなのを見ると、情なくなって来るのよ。そうかって、自分で敷き直すのは悪いわ。親切がありがたいから」

「君が家を持ったら苦労だね」

「皆そう言うわ。性分ね。うちに小さい子供が四人あるから散らかって大変なのよ。私はそれを一日かたづけて歩いてるわ。かたづける後から、どうせ散らかすのは分ってるんだけれど、気になってほっとけないんです。境遇の許す範囲で、これでも私、きれいに暮したいとは思ってるんですよ」

「そうだね」

「あんた私の気持分る?」

「分るよ」

「分るなら言ってごらんなさい。さあ、言ってごらんなさい」と、駒子は突然思い迫った声で突っかかって来た。

「それごらんなさい。言えやしないじゃないの。嘘ばっかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りゃしない」

そうして声を沈ますと、

「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい」

「そう君のように問いつめたって、はっきり言えるもんじゃない」

「なにが言えないの。あんたそれがいけないのよ」と、駒子はまだ術なげに声をつまらせたが、じっと目をつぶると自分というものを島村がなんとなく感じていてくれるのだろうかと、それは分ったらしい素振りを見せて、

「一年に一度でいいからいらっしゃいね。私のここにいる間は、一年に一度、きっといらっしゃいね」

年期は四年だと言った。

「実家へ行く時は、また商売に出るなんて夢にも思わなくて、スキイも人にくれて行っちゃったのに、出来たことと言えば、煙草を止めただけだわ」

「そうそう、前にはずいぶん吹かしてたね」

「ええ。お座敷でお客さんのくれるのを、そっと袂へ入れるから、帰ると何本も出て来ることがあるわ」

「四年はしかし長いね」

「すぐ経ってしまいますわ」

「温かい」と、島村は駒子が近づいて来るままに抱き上げた。

「温かいのは生れつきよ」

「もう朝晩は寒くなっているんだね」

「私がここへ来てから五年だもの。初めは心細くて、こんなところに住むのかと思ったわ。汽車の開通前は寂しかったなあ。あんたが来はじめてからだって、もう三年だわ」

その三年足らずの間に三度来たが、そのたびごとに駒子の境遇の変っていることを、島村は思っていた。

轡虫が急に幾匹も鳴き出した。

「いやねえ」と、駒子は彼の膝から立ち上った。

北風が来て網戸の蛾がいっせいに飛んだ。

黒い眼を薄く開いていると見えるのは濃い睫毛を閉じ合わせたのだと、島村はもう知っていながら、やはり近々とのぞきこんでみた。

「煙草を止めて、太ったわ」

腹の脂肪が厚くなっていた。

離れていてはとらえ難いものも、こうしてみるとたちまちその親しみが還って来る。

駒子はそっと掌を胸へやって、

「片方が大きくなったの」

「馬鹿。その人の癖だね、一方ばかり」

「あら。いやだわ。嘘、いやな人」と、駒子は急に変った。これであったと島村は思い出した。

「両方平均にって、今度からそう言え」

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