島村ははっと気押された。
彼は東京の下町育ちで、幼い時から歌舞伎や日本踊になじむうちに長唄の文句くらいは覚え、自ずと耳慣れているが、自分で習いはしなかった。長唄といえばすぐ踊の舞台が思い浮び、芸者の座敷を思い出さぬという風である。
「いやだわ。一番肩の張るお客さま」と、駒子はちらっと下唇を噛んだが、三味線を膝に構えると、それでもう別の人になるのか、素直に稽古本を開いて、
「この秋、譜で稽古したのね」
勧進帳であった。
たちまち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれた、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかった。
十九や二十の田舎芸者の三味線なんか高が知れてるはずだ、お座敷だのにまるで舞台のように弾いてるじゃないか、おれ自身の山の感傷に過ぎんなどと、島村は思ってみようとしたし、駒子はわざと文句を棒読みしたり、ここはゆっくり、ここはめんどくさいと言って飛ばしたりしたが、だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。
勧進帳が終ると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった。
「こんな日は音がちがう」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々まで真直ぐに響いて行った。
いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが、彼女の習わしであったゆえ、撥の強くなるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野性の意力を宿していた。幾分下地があるとは言え、複雑な曲を音譜で独習し、譜を離れて弾きこなせるまでには、強い意志の努力が重なっているにちがいない。
島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。
細かい手の器用なさばきは耳に覚えていず、ただ音の感情が分る程度の島村は、駒子にはちょうどよい聞き手なのであろう。
三曲目に都鳥を弾きはじめた頃は、その曲の艶な柔らかさのせいもあって、島村はもう鳥肌立つような思いは消え、温かく安らいで、駒子の顔を見つめた。そうするとしみじみ肉体の親しみが感じられた。
細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように見えた。あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下り気味の眉の下に、目尻が上りもせず、下りもせず、わざと真直ぐ描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼なげだった。白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上っていて、なによりも清潔だった。
しゃんと坐り構えているのだが、いつになく娘じみて見えた。
最後に、今稽古中のをと言って、譜を見ながら新曲浦島を弾いてから、駒子は黙って撥を糸の下に挟むと、体を崩した。
急に色気がこぼれて来た。
島村はなんとも言えなかったが、駒子も島村の批評を気にする風はさらになく、素直に楽しげだった。
「君はここの芸者の三味線を聞いただけで、誰だか皆分るかね」
「そりゃ分りますわ、二十人足らずですもの。都々逸がよく分るわね、一番その人の癖が出るから」
そしてまた三味線を拾い上げると、右足を折ったままずらせて、そのふくらはぎに三味線の胴を載せ、腰は左に崩しながら、体は右に傾けて、
「小さい時こうして習ったわ」と、棹を覗き込むと、
「く、ろ、かあ、みい、の……」と、幼なげに歌って、ぽつんぽつん鳴らした。
「黒髪を最初に習ったの?」
「ううん」と、駒子はその小さい時のように、かぶりを振った。
それからは泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。
「駒子ちゃん」と、尻上りに廊下の遠くから呼ぶ、宿の女の子を火燵へ抱き入れて余念なく遊んでは、正午近くにその三つの子と湯殿へ行ったりした。
湯上りの髪に櫛を入れてやりながら、
「この子は芸者さえ見れば、駒子ちゃんって、尻上りに呼ぶの。写真でも、絵でも、日本髪だと、駒子ちゃん、だって。私子供好きだから、よく分るんだわ。きみちゃん、駒子ちゃんの家へ遊びに行こうね」と、立ち上ったが、また廊下の籐椅子へのどかに落ちついて、
「東京のあわて者だわ。もう辷ってるわ」
山麓のスキイ場を真横から南に見晴せる高みに、この部屋はあった。
島村も火燵から振り向いてみると、スロオプは雪が斑らなので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で辷っていた。その段々の畑の畦は、まだ雪に隠れぬし、あまり傾斜もないから一向たわいがなかった。
「学生らしいね。日曜かしら。あんなことで面白いかね」
「でも、あれはいい姿勢で辷ってるんですわ」と、駒子はひとりごとのように、
「スキイ場で芸者に挨拶されると、おや、君かいって、お客さんは驚くんですって。真黒に雪焼けしてるから分らないの。夜はお化粧してるでしょう」
「やっぱりスキイ服を着て」
「山袴。ああ厭だ、厭だ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もうすぐなるのね。今年は辷るの止そうかしら。さようなら。さあ、きみちゃん行こうよ。今夜は雪だわ。雪の降る前の晩は冷えるんですよ」
島村は駒子の立った後の籐椅子に坐っていると、スキイ場のはずれの坂道に、きみ子の手を引いて帰る駒子が見えた。
雲が出て、陰になる山やまだ日光を受けている山が重なり合い、その陰日向がまた刻々に変って行くのは、薄寒い眺めであったが、やがてスキイ場もふうっと陰って来た。窓の下に目を落すと、枯れた菊の籬には寒天のような霜柱が立っていた。しかし、屋根の雪の解ける樋の音は絶え間なかった。
その夜は雪でなく、霰の後は雨になった。
帰る前の月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから島村はもう一度駒子を呼ぶと、十一時近くだのに彼女は散歩をしようと言ってきかなかった。なにか荒々しく彼を火燵から抱き上げて、無理に連れ出した。
道は凍っていた。村は寒気の底へ寝静まっていた。駒子は裾をからげて帯に挟んだ。月はまるで青い氷のなかの刃のように澄み出ていた。
「駅まで行くのよ」
「気ちがい。往復一里もある」
「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見に行くの」
島村は肩から腿まで寒さに痺れた。
部屋へ戻ると急に駒子はしょんぼりして、火燵に深く両腕を入れてうなだれながら、いつになく湯にも入らなかった。
火燵蒲団はそのままに、つまり掛蒲団がそれと重なり、敷蒲団の裾が掘火燵の縁へ届くように、寝床が一つ敷いてあるのだが、駒子は横から火燵にあたって、じっとうなだれていた。
「どうしたんだ」
「帰るの」
「馬鹿言え」
「いいから、あんたお休みなさい。私はこうしてたいから」
「どうして帰るんだ」
「帰らないわ。夜が明けるまでここにいるわ」
「つまらん、意地悪するなよ」
「意地悪なんかしないわ。意地悪なんかしやしないわ」
「じゃあ」
「ううん、難儀なの」
「なあんだ、そんなこと。ちっともかまいやしない」と、島村は笑い出して、
「どうもしやしないよ」
「いや」
「それに馬鹿だね、あんな乱暴に歩いて」
「帰るの」
「帰らなくてもいいよ」
「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。
つらいとは、旅の人に深填りしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。
「もう帰んなさい」
「実は明日帰ろうかと思っている」
「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたように顔を起した。
「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか」
ぽうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、
「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ」と、じれったそうに立ち上って来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、
「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば」と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わしさに体のことも忘れてしまった。
それから温かく潤んだ目を開くと、
「ほんとうに明日帰りなさいね」と、静かに言って、髪の毛を拾った。
島村は次の日の午後三時で立つことにして、服に着替えている時に、宿の番頭が駒子をそっと廊下へ呼び出した。そうね、十一時間くらいにしておいてちょうだいと駒子の返事が聞えた。十六、七時間はあまり長過ぎると、番頭が思ってのことかも知れない。
勘定書を見ると、朝の五時に帰ったのは五時まで、翌日の十二時に帰ったのは十二時まで、すべて時間勘定になっていた。
駒子はコオトに白い襟巻をして、駅まで見送って来た。
またたびの実の漬物やなめこの缶詰など、時間つぶしに土産物を買っても、まだ二十分も余っているので、駅前の小高い広場を歩きながら、四方雪の山の狭い土地だなあと眺めていると、駒子の髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の侘しさのためにかえってみじめに見えた。
遠く川下の山腹に、どうしたのか一箇処、薄日の射したところがあった。
「僕が来てから、雪が大分消えたじゃないか」
「でも二日降れば、すぐ六尺は積るわ。それが続くと、あの電信柱の電燈が雪のなかになってしまうわ。あんたのことなんか考えて歩いてたら、電線に首をひっかけて怪我するわ」
「そんなに積るの」
「この先きの町の中学ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛びこむんですって。体が雪のなかへすぽっと沈んでしまって見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって。ね、あすこにもラッセルがいるわ」
「雪見に来たいが正月は宿がこむだろうね。汽車は雪崩に埋れやしないか」
「あんた贅沢な人ねえ。そういう暮しばかりしてるの?」と、駒子は島村の顔を見ていたが、
「どうして髭をお伸しにならないの」
「うん。伸そうと思ってる」と、青々と濃い剃刀のあとをなでながら、自分の口の端には一筋みごとな皺が通っていて、柔かい頬をきりっと見せる、駒子もそのために買いかぶっているかもしれないと思ったが、
「君はなんだね、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だね」
「気持の悪い烏が鳴いてる。どこで鳴いてる。寒いわ」と、駒子は空を見上げて、両肘で胸脇を抑えた。
「待合室のストオヴにあたろうか」
その時、街道から停車場へ折れる広い道を、あわただしく駈けて来るのは葉子の山袴だった。
「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん」と、葉子は息切れしながら、ちょうど恐ろしいものを逃れた子供が母親に縋りつくみたいに、駒子の肩を掴んで、
「早く帰って、様子が変よ、早く」
駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがけなくはっきりかぶりを振った。
「お客さまを送ってるんだから、私帰れないわ」
島村は驚いて、
「見送りなんて、そんなものいいから」
「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りゃしない」
「来るよ、来るよ」
葉子はそんなことなにも聞えぬ風で、急き込みながら、
「今ね、宿へ電話をかけたの、駅だって言うから、飛んで来た。行男さんが呼んでる」と、駒子を引っぱるのに、駒子はじっとこらえていたが、急に振り払って、
「いやよ」
そのとたん、二、三歩よろめいたのは駒子の方であった。そして、げえっと吐気を催したが、口からはなにも出ず、目の縁が湿って、頬が鳥肌立った。
葉子は呆然としゃちこ張って、駒子を見つめていた。しかし顔つきはあまりに真剣なので、怒っているのか、驚いているのか、悲しんでいるのか、それが現われず、なにか仮面じみて、ひどく単純に見えた。
その顔のまま振り向くと、いきなり島村の手を掴んで、
「ねえ、すみません。この人を帰して下さい。帰して下さい」と、ひたむきな高調子で責め縋って来た。
「ええ、帰します」と、島村は大きな声を出した。
「早く帰れよ、馬鹿」
「あんた、なにを言うことあって」と、駒子は島村に言いながら彼女の手は葉子を島村から押し退けていた。
島村は駅前の自動車を指ざそうとすると、葉子に力いっぱい掴まれていた手先が痺れたけれども、
「あの車で、今すぐ帰しますから、とにかくあんたは先きに行ってたらいいでしょう。ここでそんな、人が見ますよ」
葉子はこくりとうなずくと、
「早くね、早くね」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。
葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。
「どこへ行く」と、駒子は島村が自動車の運転手を見つけに行こうとするのを引き戻して、
「いや。私帰らないわよ」
ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。
「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、呼びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする。強情張らないでさらりと水に流せ」
「ちがう。あんた誤解しているわ」
「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、その人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終りのペエジに、君を書きに行くんだ」
「いや、人の死ぬの見るなんか」
それは冷たい薄情とも、あまりに熱い愛情とも聞えるので、島村は迷っていると、
「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう」と、駒子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、
「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど」
島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。
宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。
陰気な冬支度の土地の人が四、五人、黙って乗り降りしただけであった。
「フォウムへは入らないわ。さよなら」と、駒子は待合室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまっていた。それは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れられたようであった。
汽車が動くとすぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまったが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際の色であった。
国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。
流れに沿うてやがて広野に出ると、頂上は面白く切り刻んだようで、そこからゆるやかに美しい斜線が遠い裾まで伸びている山の端に月が色づいた。野末にただ一つの眺めである。その山の全き姿を淡い夕映の空がくっきりと濃深縹色に描き出した。月はもう白くはないけれども、まだ薄色で冬の夜の冷たい冴えはなかった。鳥一羽飛ばぬ空であった。山の裾野が遮るものもなく左右に広々と延びて、河岸へ届こうとするところに、水力電気らしい建物が真白に立っていた。それは冬枯の車窓に暮れ残るものであった。
窓はスチイムの温気に曇りはじめ、外を流れる野のほの暗くなるにつれて、またしても乗客がガラスへ半ば透明に写るのだった。あの夕景色の鏡の戯れであった。東海道線などとは別の国の汽車のように使い古して色褪せた旧式の客車が三、四輛しか繋がっていないのだろう。電燈も暗い。
島村はなにか非現実的なものに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれて行くような放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。
それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだから忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかって行く今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声であった。
ちょうど今頃は、行男が息を引き取ってしまっただろうか。なぜか頑固に帰らなかったが、そのために駒子は行男の死目にもあえなかっただろうか。
乗客は不気味なほど少かった。