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「平均に? 平均にって言うの?」と、駒子は柔かに顔を寄せた。

この部屋は二階であるが、家のぐるりを蟇が鳴いて廻った。一匹ではなく、二匹も三匹も歩いているらしい。長いこと鳴いていた。

内湯から上って来ると、駒子は安心しきった静かな声でまた身上話をはじめた。

ここで初めての検査の時に、半玉の頃と同じだと思って、胸だけ脱ぐと笑われたこと、それから泣き出してしまったこと、そんなことまで言った。島村に問われるままに、

「私は実に正確なの、二日ずつきちんと早くなって行くの」

「だけどさ、お座敷へ出るのに困るというようなことはないだろう」

「ええ、そんなこと分るの?」

温まるので名高い温泉に毎日入っているし、旧温泉と新温泉との間をお座敷通いすれば一里も歩くわけになるし、夜更しも少い山暮しだから、健康な固太りだけれども、芸者などにありがちの少うし腰つぼまりだった。横に狭くて縦に厚い。そのくせ島村が遠く惹かれて来るような女であることなのは、哀れ深いものがあった。

「私のようなのは子供が出来ないのかしらね」と、駒子は生真面目にたずねた。一人の人とつきあってれば、夫婦とおなじではないかと言うのだった。

駒子にそういう人のあるのを島村は初めて知った。十七の年から五年続いていると言う。島村が前から訝しく思っていた、駒子の無知で無警戒なのはそれで分った。

半玉で受け出してくれた人に死に別れて、港へ帰るとすぐにその話があったためか、駒子は初めから今日までその人が厭で、いつまでも打ちとけられないと言う。

「五年も続けば、上等の方じゃないか」

「別れる機会は二度もあったのよ。ここで芸者に出る時と、お師匠さんのうちから今のうちへ変る時と。でも、意志が弱いんだわ。ほんとうに意志が弱いんだわ」

その人は港にいると言う。その町に置くのは都合が悪いので、師匠がこの村へ来るついでに預けてよこしたのだと言う。親切な人だのに、一度も生き身をゆるす気になれないのは、悲しいと言う。年がちがうので、たまにしか来ないと言う。

「どうしたら切れるか、よっぽど不行跡を働こうと時々思うのよ。ほんとうに思うんですよ」

「不行跡はよくない」

「不行跡は出来ない。やっぱり性分でだめだわ。私は自分の生きてる体が可愛いわ。しようとおもえば、四年の年期が二年になるんだけれど、無理をしないの。体が大事だから。無理すれば、ずいぶん線香が出るだろうな。年期だから、主人に損をかけなければいいのよ。元金が月に割って幾ら、利子が幾ら、税金が幾ら、それに自分の食い扶持を勘定に入れて、分ってるでしょう。それ以上あまり無理して働くこともないわ。めんどくさい座敷でいやなら、さっさと帰っちまうし、おなじみの名指しでなければ、宿でも夜おそくかけてよこさないわ。自分で贅沢する分にはきりがないけれども、気随に稼いでいて、それですむんですもの。もう元金を半分以上返したわ。まだ一年にならないわ。それでもお小遣がなにやかやと月三十円はかかるわね」

月に百円稼げばいいのだと言った。先月一番少い人で三百本の六十円だと言った。駒子は座敷数が九十幾つで一番多く、一座敷で一本が自分の貰いになるので、主人には損だが、どんどん廻るのだと言った。借金を殖やして年期の延びた人は、この温泉場には一人もないと言った。

翌る朝、駒子はやはり早くて、

「お花のお師匠さんとこのお部屋を掃除している夢を見て、目が覚めちゃったの」

窓ぎわへ持ち出した鏡台には紅葉の山が写っていた。鏡のなかにも秋の日ざしが明るかった。

駄菓子屋の女の子が駒子の着替えを持って来た。

「駒ちゃん」と、悲しいほど澄み通る声で襖の陰から呼ぶ、あの葉子ではなかった。

「あの娘さんはどうした」

駒子はちらっと島村を見て、

「お墓参りばかりしてるわ。スキイ場の裾にほら、蕎麦の畑があるでしょう、白い花の咲いてる。その左に墓が見えるじゃないの?」

駒子が帰ってから島村も村へ散歩に行ってみた。

白壁の軒下で真新しい朱色のネルの山袴を履いて、女の子がゴム鞠を突いているのは、実に秋であった。

大名が通った頃からであろうと思われる、古風な作りの家が多い。廂が深い。二階の窓障子は高さ一尺ぐらいしかなくて長細い。軒端に萱の簾を垂れている。

土坡の上に糸薄を植えた垣があった。糸薄は桑染色の花盛りであった。その細い葉が一株ずつ美しく噴水のような形に拡がっていた。

そうして道端の日向に藁莚を敷いて小豆を打っているのは葉子だった。

乾いた豆幹から小豆が小粒の光のように踊り出る。

手拭をかぶっているので島村が見えないのか、葉子は山袴の膝頭を開いて小豆を叩きながら、あの悲しいほど澄み通って木魂しそうな声で歌っていた。

蝶々とんぼやきりぎりす

お山でさえずる

松虫鈴虫くつわ虫

杉の樹をつと離れた、夕風のなかの烏が大きい、という歌があるが、この窓から見下す杉林の前には、今日も蜻蛉の群が流れている。夕が近づくにつれ、彼等の游泳はあわただしく速力を早めて来るようだった。

島村は出発の前に駅の売店でここらあたりの山案内書の新刊を見つけて買って来た。それをとりとめなく読んでいると、この部屋から見晴らす国境の山々、その一つの頂近くは、美しい池沼を縫う小路で、一帯の湿地にいろんな高山植物が花咲き乱れ、夏ならば無心に赤蜻蛉が飛び、帽子や人の手や、また時には眼鏡の縁にさえとまるのどかさ、虐げられた都会の蜻蛉とは雲泥の差であると書いてあった。

しかし目の前の蜻蛉の群は、なにか追いつめられたもののように見える。暮れるに先立って黒ずむ杉林の色にその姿を消されまいとあせっているもののように見える。

遠い山は西日を受けると、峰から紅葉して来ているのがはっきり分った。

「人間なんて脆いもんね。頭から骨まで、すっかりぐしゃぐしゃにつぶれてたんですって。熊なんか、もっと高い岩棚から落ちたって、体はちっとも傷がつかないそうよ」と、今朝駒子が言ったのを島村は思い出した。岩場でまた遭難があったという、その山を指ざしながらであった。

熊のように硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがったものであったにちがいない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ。そんなことを思って夕日の山を眺めていると島村は感傷的に人肌がなつかしくなって来た。

「蝶々とんぼやきりぎりす……」というあの歌を、早い夕飯時に下手な三味線で歌っている芸者があった。

山の案内書には、登路、日程、宿泊所、費用などが、簡単に書いてあるだけで、かえって空想を自由にしたし、島村が初めて駒子を知ったのも、残雪の肌に新緑の萌える山を歩いて、この温泉村へ下りて来た時のことだったし、自分の足跡も残っている山を、こうして眺めていると、今は秋の登山の季節であるから、山に心が誘われて行くのだった。無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた非現実的な魅力もあった。

遠く離れていると、駒子のことがしきりに思われるにかかわらず、さて近くに来てみると、なにか安心してしまうのか、今はもう彼女の肉体も親し過ぎるのか、人肌がなつかしい思いと、山に誘われる思いとは、同じ夢のように感じられるのだった。昨夜駒子が泊って行ったばかりだからでもあろう。しかし静かななかに一人坐っていては、呼ばなくても駒子も来そうなものだと、心待ちするよりしかたがなかったが、ハイキングの女学生達の若々しく騒ぐ声が聞えているうちに眠ろうと思って、島村は早くから寝た。

やがて時雨が通るらしかった。

翌る朝目をあくと、駒子が机の前にきちんと坐って本を読んでいた。羽織も銘仙の不断着だった。

「目が覚めた?」と、彼女は静かに言って、こちらを見た。

「どうしたんだい」

「目が覚めた?」

知らぬ間に来て泊っていたのかと疑って、島村が自分の寝床を見廻しながら、枕もとの時計を拾うとまだ六時半だった。

「早いんだね」

「だって、女中さんがもう火を入れに来たわよ」

鉄瓶は朝らしい湯気を立てていた。

「起きなさいよ」と、駒子は立って来て、彼の枕もとに坐った。ひどく家庭の女めいた素振りであった。島村は伸びをしたついでに、女の膝の上の手をつかんで小さい指の撥胼胝を弄びながら、

「眠いよ。夜があけたばかりじゃないか」

「一人でよく眠れた?」

「ああ」

「あんた、やっぱり髭をお伸しにならなかったのね」

「そうそう、この前別れる時、そんなこと言ってたね。髭を生やせって」

「どうせ忘れてたって、いいわよ。いつも青々ときれいに剃ってらっしゃるのね」

「君だって、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だよ」

「頬っぺたが、またお太りになったんじゃないかしら。色が白くて、眠ってらっしゃるところは髭がないと変だわ。円いわ」

「柔和でいいだろう」

「頼りないわ」

「いやだね。じろじろ見てたんだね」

「そう」と、駒子はにっこりうなずいてその微笑から急に火がついたように笑い出すと、知らず識らず彼の指を握る手にまで力が入って、

「押入に、隠れたのよ。女中さんちっとも気がつかないで」

「いつさ。いつから隠れてたんだ」

「今じゃないの? 女中さんが火を持って来た時よ」

そして思い出し笑いが止まらぬ風だったが、ふと耳の根まで赤らめると、それを紛らわすように掛蒲団の端を持って煽ぎながら、

「起きなさい。起きてちょうだい」

「寒いよ」と、島村は蒲団を抱えこんで、

「宿じゃもう起きてるのかい」

「知らないわ。裏から上って来たのよ」

「裏から?」

「杉林のところから掻き登って来たのよ」

「そんな路があるの?」

「路はないけれど、近いわ」

島村は驚いて駒子を見た。

「私が来たのを誰も知らないわ。お勝手に音がしてたけれど、玄関はまだしまってるんでしょう」

「君はまた早起きなんだね」

「昨夜眠れなかったのよ」

「時雨があったの知ってる?」

「そう? あすこの熊笹が濡れてたの、それでなのね。帰るわね。もう一寝入り、お休みなさいね」

「起きるよ」と、島村は女の手を握ったまま、勢いよく寝床を出た。そのまま窓へ行って、女が掻き登って来たというあたりを見下すと、灌木類の茂りの裾が猛々しく拡がっていた。それは杉林に続く丘の中腹で、窓のすぐ下の畑には、大根、薩摩芋、葱、里芋など、平凡な野菜ながら朝の日を受けて、それぞれの葉の色のちがいが初めて見るような気持であった。

湯殿へ行く廊下から、番頭が泉水の緋鯉に餌を投げていた。

「寒くなったとみえて、食いが悪くなりました」と、番頭は島村に言って、蚕の蛹を干し砕いた餌が水に浮んでいるのを、しばらく眺めていた。

駒子が清潔に坐っていて、湯から上って来た島村に、

「こんな静かなところで、裁縫してたら」

部屋は掃除したばかりで、少し古びた畳に秋の朝日が深く差しこんでいた。

「裁縫が出来るのか」

「失礼ね。きょうだいじゅうで、一番苦労したわ。考えてみると、私の大きくなる頃が、ちょうどうちの苦しい時だったらしいわ」と、ひとりごとのようだったが、急に声をはずませて、

「駒ちゃんいつ来たって、女中さんが変な顔してたわ。二度も三度も押入に隠れることは出来ないし、困っちゃった。帰るわね。いそがしいのよ。眠れなかったから、髪を洗おうと思ったの。朝早く洗っとかないと、乾くのを待って、髪結いさんへ行って、昼の宴会の間に合わないのよ。ここにも宴会があるけれど、昨夜になってしらせてよこすんだもの。よそを受けちゃった後で、来れやしない。土曜日だから、とてもいそがしいのよ。遊びに来れないわ」

そんなことを言いながら、しかし駒子は立ち上りそうもなかった。

髪を洗うのは止めにして、島村を裏庭へ誘い出した。さっきそこから忍んで来たのか、渡廊下の下に駒子の濡れた下駄と足袋があった。

彼女が掻き登ったという熊笹は通れそうもないので、畑沿いに水音の方へ下りて行くと、川岸は深い崖になっていて、栗の木の上から子供の声が聞えた。足もとの草のなかにも毬が幾つも落ちていた。駒子は下駄で踏みにじって、実を剥き出した。みんな小粒の栗だった。

向岸の急傾斜の山腹には萱の穂が一面に咲き揃って、眩しい銀色に揺れていた。眩しい色と言っても、それは秋空を飛んでいる透明な儚さのようであった。

「あすこへ行ってみようか、君のいいなずけの墓が見える」

駒子はすっと伸び上って島村をまともに見ると、一握りの栗をいきなり彼の顔に投げつけて、

「あんた私を馬鹿にしてんのね」

島村は避ける間もなかった。額に音がして、痛かった。

「なんの因縁があって、あんた墓を見物するのよ」

「なにをそう向きになるんだ」

「あれだって、私には真面目なことだったんだわ。あんたみたいに贅沢な気持で生きてる人とちがうわ」

「誰が贅沢な気持で生きてるもんか」と、彼は力なく呟いた。

「じゃあ、なぜいいなずけなんて言うの? いいなずけでないってことは、この前よく話したじゃないの? 忘れてんのね」

島村は忘れていたわけではない。

「お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知ってたの。だけど、二人は別になんでもなかった。別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた」

駒子がそう言ったのを覚えている。

その男が危篤だというのに、彼女は島村のところへ泊って、

「私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」と、身を投げ出すように言ったこともあった。

まして、駒子がちょうど島村を駅へ見送っていた時に、病人の様子が変ったと、葉子が迎えに来たにかかわらず、駒子は断じて帰らなかったために、死目にも会えなかったらしいということもあったので、なおさら島村はその行男という男が心に残っていた。

駒子はいつも行男の話を避けたがる。いいなずけではなかったにしても、彼の療養費を稼ぐために、ここで芸者に出たというのだから、「真面目なこと」だったにちがいない。

栗をぶっつけられても、腹を立てる風がないので、駒子は束の間訝しそうであったが、ふいと折れ崩れるように縋って来て、

「ねえ、あんた素直な人ね。なにか悲しいんでしょう」

「木の上で子供が見てるよ」

「分らないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね」

「なにもかも散っちゃってるよ」

「今に命まで散らすわよ。墓を見に行きましょうか」

「そうだね」

「それごらんなさい。墓なんかちっとも見たくないんじゃないの?」

「君の方でこだわってるだけだよ」

「私は一度も参ったことがないから、こだわるのよ、ほんとうよ、一度も。今はお師匠さんもいっしょに埋まってるんですから、お師匠さんにはすまないと思うけれど、いまさら参れやしない。そんなことしらじらしいわ」

「君の方がよっぽど複雑だね」

「どうして? 生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ」

静けさが冷たい滴となって落ちそうな杉林を抜けて、スキイ場の裾を線路伝いに行くと、すぐに墓場だった。田の畦の小高い一角に、古びた石碑が十ばかりと地蔵が立っているだけだった。貧しげな裸だった。花はなかった。

しかし、地蔵の裏の低い木蔭から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見た。島村はこくんとおじぎをするとそのまま立ち止った。

「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばされたように、彼女も島村も身を竦めた。

貨物列車が轟然と真近を通ったのだ。

「姉さあん」と、呼ぶ声が、その荒々しい響きのなかを流れて来た。黒い貨物の扉から、少年が帽子を振っていた。

「佐一郎う、佐一郎う」と、葉子が呼んだ。

雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞えもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。

貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦の花が鮮かに見えた。赤い茎の上に咲き揃って実に静かであった。

思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨物列車が吹き払って行ってしまった。

そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔な愛情の木魂が返って来そうだった。

葉子は汽車を見送って、

「弟が乗っていたから、駅へ行ってみようかしら」

「だって、汽車は駅に待ってやしないわ」と、駒子が笑った。

「そうね」

「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ」

葉子はうなずいて、ちょっとためらっていたが、墓の前にしゃがんで手を合わせた。

駒子は突っ立ったままであった。

島村は目をそらして地蔵を見た。長い顔の三面で、胸で合掌した一組の腕のほかに、右と左に二本ずつの手があった。

「髪を結うのよ」と、駒子は葉子に言って、畦道を村の方へ行った。

土地の言葉でハッテという、樹木の幹から幹へ、竹や木の棒を物干竿のような工合に幾段も結びつけて、稲を懸けて干す、そして稲の高い屏風を立てたように見えるのだが――島村達が通る路ばたにも、百姓がそのハッテを作っていた。

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