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けれどもこんな愛着は一枚の縮ほどの確かな形を残しもしないだろう。着る布は工芸品のうちで寿命の短い方にしても、大切にあつかえば五十年からもっと前の縮が色も褪せないで着られるが、こうした人間の身の添い馴れは縮ほどの寿命もないなどとぼんやり考えていると、ほかの男の子供を産んで母親になった駒子の姿が不意に浮んで来たりして、島村ははっとあたりを見まわした。疲れているのかと思った。

妻子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのような苛責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたずんでいるのだった。駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。

こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来れないだろうという気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。銀の花鳥が器用にちりばめてあった。松風の音は二つ重なって、近くのと遠くのとに聞きわけられたが、その遠くの松風のまた少し向うに小さな鈴がかすかに鳴りつづけているようだった。島村は鉄瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、もはやここを去らねばならぬと心立った。

そこで島村は縮の産地へ行ってみることを思いついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあった。

しかし川下に幾つもある町のどれへ行けばよいのか、島村はわからなかった。現在機業地に発展している大きい町が見たいというのではないので、島村はむしろさびしそうな駅に下りた。しばらく歩くと昔の宿場らしい町通に出た。

家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでいた。江戸の町で店下と言ったのに似ているが、この国では昔から雁木というらしく、雪の深いあいだの往来になるわけだった。片側は軒を揃えて、この庇が続いている。

隣りから隣りへ連なっているから、屋根の雪は道の真中へおろすより捨場がない。実際は大屋根から道の雪の堤へ投げ上げるのだ。向う側へ渡るのには雪の堤をところどころくりぬいてトンネルをつくる。胎内くぐりとこの地方ではいうらしい。

同じ雪国のうちでも駒子のいる温泉村などは軒が続いていないから、島村はこの町で初めて雁木を見るわけだった。もの珍らしさにちょっとそのなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根元が朽ちていたりした。先祖代々雪に埋もれた鬱陶しい家のなかを覗いてゆくような気がした。

雪の底で手仕事に根をつめた織子達の暮しは、その製作品の縮のように爽かで明るいものではなかった。そう思われるに十分な古町の印象だった。縮のことを書いた昔の本にも唐の秦韜玉の詩などが引かれているが、機織女を抱えてまで織らせる家がなかったのは、一反の縮を織るのにずいぶん手間がかかって、銭勘定では合わないからだという。

そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか。島村は雁木の下から道へ出た。

宿場の街道筋らしく真直に長い町通だった。温泉村から続いている古い街道だろう。板葺きの屋根の算木や添石も温泉町と変りがなかった。

庇の柱が薄い影を落していた。いつのまにか夕暮近くだった。

なにも見るものがないので、島村はまた汽車に乗って、もう一つの町に下りてみた。前の町と似たものだった。やはりただぶらぶら歩いて、寒さしのぎにうどんを一杯すすっただけだった。

うどん屋は川岸で、これも温泉場から流れて来る川だろう。尼僧が二人づれ三人づれと前後して橋を渡って行くのが見えた。わらじ履きで、なかには饅頭笠を背負ったのもあって、托鉢の帰りのようだった。烏が塒に急ぐ感じだった。

「尼さんがだいぶ通るね?」と、島村はうどん屋の女にたずねてみた。

「はい、この奥に尼寺があるんですよ。そのうち雪になると、山から出歩くのが難渋になるんでしょう」

橋の向うに暮れてゆく山はもう白かった。

この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催いである。遠近の高い山が白くなる。これを岳廻りという。また海のあるところは海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のようである。これを胴鳴りという。岳廻りを見、胴鳴りを聞いて、雪が遠くないことを知る。昔の本にそう書かれているのを島村は思い出した。

島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴ったのだろうか。島村は一人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだけで、その遠鳴が耳の底を通るようだった。

「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの」

「さあ。大勢でしょうよ」

「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうかな」

物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。

島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。足が冷えた。

なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉場に戻った。車がいつもの踏切を越えて鎮守の杉林の横まで来ると、目の前に明りの出た家が一軒あって、島村はほっとしたが、それは小料理屋の菊村で、門口に芸者が三、四人立話していた。

駒子もいるなと思う間もなく駒子ばかりが見えた。

車の速力が急に落ちた。島村と駒子とのことをもう知っている運転手はなんとなく徐行したらしい。

ふと島村は駒子との逆の方のうしろを振り向いた。乗って来た自動車のわだちのあとが雪の上にはっきり残っていて、星明りに思いがけなく遠くまで見えた。

車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、ぱっと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手につかまっていた。

飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温かいものに寄り添われたようで、駒子のしていることに不自然も危険も感じなかった。駒子は窓を抱くように片腕をあげた。袖口が辷って長襦袢の色が厚いガラス越しにこぼれ、寒さでこわばった島村の瞼にしみた。

駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、

「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と、甲高く呼んだ。

「危いじゃないか。むちゃをするね」と、島村も声高に答えたが、甘い遊びだった。

駒子が扉をあけて横倒れにはいって来た。しかしその時車はもう止まっているのだった。山の裾に来ていた。

「ねえ、どこへいらしたの?」

「うん、まあ」

「どこ?」

「どこってこともないが」

駒子の裾を直す手つきの芸者風なのが、島村にふと珍らしいもののように見えたりした。

運転手はじっとしていた。道の行きづまりで止まっている車に、こうして乗っているのはおかしいと島村は気がつくと、

「おりましょう」と、島村の膝の上に駒子が手を重ねて来たが、

「まあ、冷たい。こんなよ。どうして私を連れて行かなかったの?」

「そうだったね」

「なによ? おかしなひと」

駒子は楽しげに笑って、急な石段の小路を登った。

「あんたの出ていらっしゃるところ、私見てたのよ。二時か、三時だったわね?」

「うん」

「車の音がするから出てみたの。表に出てみたのよ。あんた、うしろを見なかったでしょう?」

「ええ?」

「見なかったわよ。どうして振り返ってみなかったの?」

島村はおどろいた。

「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」

「知らなかったね」

「そうれごらんなさい」と、駒子はやはり楽しそうに含み笑いした。そして肩を寄せて来た。

「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなって来て、いやよ」

突然擦半鐘が鳴り出した。

二人は振り向くなり、

「火事、火事よ!」

「火事だ」

火の手が下の村の真中にあがっていた。

駒子はなにか二声三声叫んで島村の手をつかんだ。

黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。

「どこだ、君が元いたお師匠さんの家、近いんじゃないか」

「ちがう」

「どのへんだ」

「もっと上よ。停車場寄りよ」

炎が屋根を抜いて立ちあがった。

「あら、繭倉だわ。繭倉だわ。あら、あら、繭倉が焼けてるのよ」と、駒子は言い続けて島村の肩に頬を押しつけた。

「繭倉よ、繭倉よ」

火は燃えさかって来るばかりだが、高みから大きい星空の下に見下すと、おもちゃの火事のように静かだった。そのくせすさまじい炎の音が聞えそうな恐ろしさは伝わって来た。島村は駒子を抱いた。

「こわいことないじゃないか」

「いや、いや、いや」と、駒子はかぶりを振って泣き出した。その顔が島村の掌にいつもより小さく感じられた。固いこめかみが顫えていた。

火を見て泣き出したのだが、なにを泣くのかと島村はいぶかりもしないで抱いていた。

駒子は不意に泣きやむと顔を離して、

「あら、そうだった、繭倉に映画があるのよ、今夜だわ。人がいっぱいはいってるのよ、あんた……」

「そりゃ大変だ」

「怪我人が出てよ。焼け死ぬわ」

二人はあわてて石段を駈け登った。上の方で騒ぐ声が聞えるからだ。見上げると高い宿屋の二階三階も、たいていの部屋が障子をあけた明りの廊下に人が出て火事を見ていた。庭のはずれに並んだ菊の末枯が宿の燈か星明りかで輪郭を浮べ、ふと火事が映っていると思わせたが、その菊のうしろにも人が立っていた。二人の顔の上へ宿の番頭などが三、四人ころぶように下りて来た。駒子は声を張りあげて、

「あんた、繭倉あ?」

「繭倉だあ」

「怪我人は? 怪我人はないの?」

「どんどん助け出してるんだあ。活動のフィルムから、ぼうんといっぺんに燃えついて、火の廻りが早いや。電話で聞いたんだ。あれ見ろい」と、番頭は出会いがしらに片腕を振り上げて行った。

「子供なんざあ、二階からぼんぼん投げおろしてるんだってさ」

「まあ。どうしよう」と、駒子は番頭を追うように石段を下りた。後から下りて来る人々が駈け抜けて行った。駒子も誘われて走り出していた。島村も追っかけた。

石段の下では火事が人家にかくれて焔の頭しか見えないところへ、擦半鐘が鳴り渡るので、なお不安が増して走った。

「雪が凍みてるから気をつけてね。滑る」と、駒子は島村を振り向いたが、その拍子に立ち止まって、

「でも、そうよ。あんたはいいのよ、いらっしゃらなくて。私は村の人が心配よ」

言われてみればそうだった。島村は拍子抜けがすると足もとに線路が見えた。踏切の前まで来ていた。

「天の河。きれいねえ」

駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。

ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、すぐそこに降りて来ている。恐ろしいなまめかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく、ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。

「おうい。おうい」

島村は駒子を呼んだ。

「ほうい。来てちょうだあい」

天の河が垂れさがる暗い山の方へ駒子は走っていた。

褄を取っているらしく、その腕を振るたびに赤い裾が多く出たり縮まったりした。星明りの雪の上に赤い色だとわかった。

島村は一散に追っかけた。

駒子は足をゆるめると、褄をはなして島村の手を取った。

「行くの、あんたも?」

「うん」

「物好きねえ」と、雪の上に落ちている裾をつまみ上げて、

「私が笑われるから、帰ってちょうだい」

「うん、そこまで」

「悪いじゃないの? 火事場まであんたを連れて行くなんて、村の人に悪いわ」

島村はうなずいて止まったのに、駒子が島村の袖に軽くつかまったままゆっくり歩き出した。

「どこかで待っててちょうだい。すぐ戻って来ます。どこがいい」

「どこでもいいよ」

「そうね、もう少し向う」と、駒子は島村の顔をのぞきこんだが、急にかぶりを振って、

「いやだ、もう」

どんと駒子は体をぶっつけた。島村は一足よろけた。道端の薄雪のなかに葱の列が立っていた。

「なさけないわ」

そして駒子は早口に挑みかかった。

「ねえ、あんた、私をいい女だって言ったわね。行っちゃう人が、なぜそんなこと言って、教えとくの?」

駒子が簪をぷすりぷすり畳に突き刺していたのを、島村は思い出した。

「泣いたわ。うちへ帰ってからも泣いたわ。あんたと離れるのこわいわ。だけどもう早く行っちゃいなさい。言われて泣いたこと、私忘れないから」

駒子の聞きちがえで、かえって女の体の底まで食い入った言葉を思うと、島村は未練に絞めつけられるようだったが、俄かに火事場の人声が聞えて来た。新しい火の手が火の子を噴き上げた。

「あら、また、あんなに燃えて、あんなに火が出たわ」

二人はほっと救われたように走り出した。

駒子はよく走った。凍りついた雪を下駄で掠めて飛ぶかと見え、腕も前後に振るというよりも両脇に張った形だった。胸のあたりに固く力をこめた形で、案外小柄だと島村は思った。小太りの島村は駒子の姿を見ながら走っているので、なお早く苦しくなった。しかし、駒子も急に息切れして、島村によろけかかった。

「目玉が寒くて、涙が出るわ」

頬がほてって目ばかり冷たい。島村も瞼が濡れた。瞬くと天の河が目に満ちた。島村はその涙が落ちそうなのをこらえて、

「毎晩、こんな天の河かい」

「天の河? きれいね、毎晩じゃないでしょう。よく晴れてるわ」

天の河は二人が走って来たうしろから前へ流れおりて、駒子の顔は天の河のなかで照らされるように見えた。

しかし、細く高い鼻の形も明らかでないし、小さい唇の色も消えていた。空をあふれて横切る明りの層が、こんなに暗いのかと島村は信じられなかった。薄月夜よりも淡い星明りなのだろうが、どんな満月の空よりも天の河は明るく、地上になんの影もないほのかさに駒子の顔が古い面のように浮んで、女の匂いのすることが不思議だった。

見上げていると天の河はまたこの大地を抱こうとしておりて来ると思える。

大きい極光のようでもある天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせた。しいんと冷える寂しさでありながら、なにかなまめかしい驚きでもあった。

「あんたが行ったら、私は真面目に暮すの」と、駒子は言って歩き出すと、ゆるんだ髷に手をやった。五、六歩行って振り返った。

「どうしたの。いやよ」

島村は立ったままでいた。

「そう? 待っててね。後でいっしょにお部屋へ行かせて」

駒子はちょっと左手を上げてから走った。後姿が暗い山の底に吸われて行くようだった。天の河はその山波の線で切れるところに裾をひらき、また逆にそこから花やかな大きさで天へひろがってゆくようだったから、山はなお暗く沈んでいた。

島村が歩き出すと間もなく駒子の姿は街道の人家でかくれた。

「やっしょ、やっしょ、やっしょ」と掛声が聞えて、ポンプをひいて行くのが街道に見えた。街道は後から後から人が走っているらしい。島村も急いで街道に出た。二人が来た道は丁字形に街道へ突きあたるのだった。

またポンプが来た。島村はやり過して、その後について走った。

古い手押型の木のポンプだった。長い綱を先引きする一隊のほかに、ポンプのまわりも消防が取り巻いている、それがおかしいほどポンプは小さかった。

そのポンプの来るのを、駒子も道端によけていた。島村を見つけていっしょに走った。ポンプをよけて道端に立った人々が、ポンプに吸い寄せられてゆくように後を追った。今は二人も火事場へ駈けつける人の群に過ぎなかった。

「いらしたの? 物好きに」

「うん。心細いポンプだね、明治前だ」

「そうよ。ころばないでね」

「滑るね」

「そうよ、これから、地吹雪が一晩中荒れる時に、あんた一度、来てごらんなさい。来れないでしょう。雉や兎が、人家のなかへ逃げ込んで来るわ」などと駒子が言っても、消防の掛声や人々の足音に調子づいて、明るくはずんだ声だった。島村も身が軽かった。

焔の音が聞えた。眼の前に火の手が立った。駒子は島村の肘をつかんだ。街道の低い黒い屋根が火明りでほうっと呼吸するように浮き出して、また薄れた。足もとの道にポンプの水が流れて来た。島村と駒子も人垣に自然立ちどまった。火事の焦臭さに繭を煮るような臭いがまじっていた。

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