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Maribel Pedrera

CCI コ—チング – 深層知識コ—チングへの新たな手法

献辞

これは私の実名で書く最初の本です。次の人人に捧げたいと思います。

まずこの本を、ある素晴らしい人物、しかも私を友人として見てくれているその偉大な女性に捧げたいと思います。彼女と知り合えたことを誇りに思っています。

それは私にとって本当の誇りです。というのは今日では、優秀でしかも質素、謙虚さ、誠実さを同時に兼ね備えた人を見つけるのは本当に難しいからです。

本当にそうです。彼女は、自分の仕事を大切にしながら、同時に幸福であることの重要さを、しかもただ幸福であるだけでなく、自分自身に謙虚であることの重要さをも知っている人物だからです。

彼女を知らない人は、そんなことは不可能だと思うでしょう。反対に彼女を長年知っている私には、彼女に不可能なことは何もないことがわかっています。彼女の純粋さ、不可能と思われる状況から常に前向きな解決策を引き出す能力は、驚きに値します。

同時に、もし解決の方法がない状況では、慎重に、しかも敏感さと愛情を持ってそれを説明してくれます。

彼女とはお互いに全く異なる分野にあっても、常に何かを学ぶことができます。

なかでも彼女の最も素晴らしい点は、あなたが人として向上できるように経験を共有してくれる態度です。

あなたとこれまでに出会ってきた人たちはみんな、あなたと経験を共有したことを誇りに思っていると思います。あなたのそばにいるだけでもっと輝くことができます。あなた自身はそれを「過大評価」されていると思っていましょうが。

私たちが共有したすべてのこと、そしてこれからも私たちが一緒に笑い、幸福を共有できることに感謝します。

パトリシア・モントゥル・ヴィラ医師へ

第二に、私はバ—バラ・オ—クリ—の大ファンです。この本を書くにあたって、私は彼女に連絡をとって、献辞を捧げる旨を知らせました。

皆さんに知って欲しいのは、彼女が本当の「コ—チ」の最高のお手本だということです。彼女は私に関心を持って返事をしてくれたばかりか、私に自分のプロジェクトを続けるように励ましてくれました。これにはとても勇気づけられました。

私は毎朝起きると同時に、人生は時として準備もなく臨機応変に対応しなくてはいけない。そのためには常に学んで、状況に臨機応変に対応して、自分に与えられた障害物を乗り越えていかなければいけない、そうやって前進するものだと自分に言い聞かせてきます。そういう意味では彼女はこれを最も具体的に明らかに示してくれている人だと思います。

彼女は信じられないほど謙虚でありながら、同時にまわりのすべての人をサポ—トできるだけの能力があります。誰かが輝けば、まわりの人人がその人を素晴らしいと思い、その人から学び、今度は学んだその人が輝き出す。これは私の人生哲学ですが、彼女はそれを体現している人です。

私は彼女の手法を学んでいますが、これは本当に役に立っています。私自身が彼女の手法が効果的であるということの証明になっています。しかも彼女の人間味、その飾らない態度が、彼女をさらに大きな存在にしています。

バ—バラ、私をサポ—トしてくれてありがとう。

そして第三に、この本を書くにあたって、私に助言してくれた人人にも感謝したいと思います。

彼らの助言のおかげで、私は本の内容をさらにより良くするためにまだ何が欠けていのか知ることができ、結果的に私自身から最良のものを引き出してくれました。

これに関連して、子供の頃、朝食のときに家族が集って日常生活のいろいろなことを話し合い楽しい時間を過ごしたことを思い出しました。私が大好きだったのは、母と同じ名前のマフィンを食べることで、その味は本当に素晴らしかった。

二年ほど前に仕事のネットワ—クを深めようと、LinkedInなどを使って未知の新しい領域に踏み出しました。その時自分のプロフィ—ルについて、すでにLinkedInで活躍しているある人に意見を聞いてみることにしました。

彼にとって私は全くの他人だったため、私の仕事や人間性に対してもわざわざ興味を抱く必要もなかったのです。

そこで私が得た嬉しい驚きは、彼の答えが率直で、誠実で、正直であったことでした。彼は改善できる点を、私にも納得行くように教えてくれました。まるで同僚とでも話しているように、クラスに通って学んでいるように、それから私自身が誰かを改善しようとしているようにも思えました。このアプロ—チが本当に良かった。この方法が本当に気に入りました。

それがきっかけで、私は彼が書いていること、彼がソ—シャルネットワ—クを通じて行っていることを日日フォロ—していきました。

読者のほとんどは彼のことを知らないでしょうが、彼はこの国の素晴らしい人物であり、素晴らしい職業人なのです。

特に今年は非常に困難な年で、彼は谷のどん底にいました。それでも彼はチ—ム全体をサポ—トしたばかりか、それを強化しました。こういう事ができる人は今日では稀有です。

後ほど皆さんは、コ—チングに関する私の見解を読まれることになりますが、そこで私は、実際に、ビジネスレベル、エグゼクティブレベル、チ—ムレベル、リ—ダ—レベルでそれらを実践している実例を挙げなければなりません。その実例とは間違いなく彼なのです。

加えて、彼は常に人人の新しいニ—ズに対応して、食べ物と環境の両方の視点に立って、より持続可能でより良い世界を作り出しているからです。

彼が会社経営のためにしている努力を見ればそれがおわかりになるでしょう。ドゥルセ・ソル(Dulcesol)からビッキ—・フ—ズ(Vicky Foods)、ビ—・プラス(Be plus)に至るまで、品質と革新性およびサ—ビスがうまく組み合っています。これは大変稀有なことです。

更に最も驚くべきことは、彼と一緒に働く人人が彼の仕事から学び、毎日自分たちの仕事を誇りに思って働いているということです。

ありがとうラファエル・ファン。

Chapter 1-オンセ(ONCE)チ—ムに感謝します

私たちは、自分が嫌いなもの、自分を悩ませていること、間違っていると思うことすべてについて不平を言うことに慣れてしまっていて、感謝するということを忘れています。あの時にちょっと助けてもらったおかげで、あの時励ましてもらったおかげで、私たちは今いる場所にたどり着けたのだということを覚えておいてください。

私の母は困難にくじけない大変な働き者です。彼女は1947年2月18日に生まれました。大変な苦労をしましたが、今も彼女と楽しい時間を過ごせることに幸いに思います。

ほんとうに私の両親は二人とも大変な働き者です。むかし母は二つ仕事を持っていました。それは私たちの両親の世代では普通のことでした。掃除婦の仕事の他に、美容師としても働き、趣味は縫い物という具合でした。

当時彼女が私に縫ってくれたものを今になって見ると、本当にその大切さがわかります。しかし子供の頃は、まわりのみんながお店で買ってもらった服を着ているのを見てそれが羨ましくて――今ではカスタムメ—ドと言って好まれているのですが――母が縫ってくれたものをありがたいと思う気持ちにはなれませんでした。

彼女はドレスもブラウスも縫ってくれました。しかも刺繍が大好きだったのです。今日ではそれは真の芸術作品とみなされましょうが、当時の私はジ—ンズの方が欲しかったのです。

それでも私たちは普通の家庭でした。しかしある夜両親がいつものように床についたのですが、翌朝母は起きようとしても、自分で起きることができませんでした。母はまだ35歳でした。

今はすべてが当時と比べて進歩しました。私たちは気づきませんが、当時からすると医療は大変な進歩を遂げました。今では私たちは解決策を与えられることに慣れてしまっていますが、その裏に大変な研究と努力があることを忘れてはいけません。身近にそれを体験したときにはじめてそのことに気づきます。彼女は脳卒中を起こしたのでした。今では脳卒中とは何か、そしてその治療手順も知られています。

私たちは帰宅したときにそれを知りました。母は手を動かすことも、歩くこともできませんでした。それができるまでに大変時間がかかりました。このときに私は、病める時も健やかなる時も愛するということの意味が本当にわかりました。それは私の父がその誓いに違わず、いやそれを超えていたからです。母の性格が変わり、一方で父は活発に、有用に動かなければなりませんでした。それは当時の困難な状況の中で一番の大問題でした。

大変幸運だったのは、喘息の妹を治療してくれた医者が、母の卒中が回復すると太鼓判を押してくれたことです。そして母が回復に向かって努力したこと、父が母の家でのリハビリを一生懸命に助けたことでした。自分がもう役立たずと思ってうつ病になっていた母の唯一の望みは、再び仕事ができるようになることでした。家族は、当時の私が全く知らなかった団体のオンセ(ONCE) スペインの事情がわからない方のために、オンセ(ONCE)とはスペイン国立盲人協会を意味し、1938年12月13日にラモン・セラノ・スニェルによって設立されました。に連絡をとりました。私はまだ幼かったですが、それでも私たちが何をしようとしているのかは理解できました。

そうです、オンセは皆さんが知っているあの宝くじを販売している団体です。普段は誰も気にかけていません。援助団体であると言われていますが、オンセがどんな援助しているのかについて説明してくれる人は誰もいませんでした。

私が自分の体験に基づいてそれを説明しましょう。私の母は身体障害者です。彼女の名前はグロリア・ペレス・ムニョスです。彼女の販売員番号は2,547。重度の身障者です。オンセは彼女に仕事の機会を与えてくれました。彼女にくじの販売の仕方を教え、彼女をサポ—トしてくれました。定期的にオンセの「検査官」がやってきました。「検査官」というのはオンセが彼らをそう呼んでいたからです。

彼らの肩書は今でいうとカウンセラ—、アドバイザ—、コ—チに相当しましょうか。その人は定期的にやってきて、母が宝くじ販売ブ—スでどうやって働いているか、何か必要なものがあるか心配してくれて、またオンセからの何かニュ—スがあれば彼女に伝えました。これは彼らがスタッフのために行うチ—ムワ—クです。

皆さんが知らないことが他にもたくさんあります。もしあなたに子供があれば、第一に考えることは、子供を学校に入れることです。もちろん公立の学校にです。ここスペインでは教育は無料ですが、もしあなたの子供が視覚障害者だったらどうしますか?誰が助けてくれますか?どこに連絡しますか?誰があなたの子供を訓練してくれますか?どうやって仕事を見つけますか?普通私たちは、こういった質問をしなくて済みます。それは幸いにも私たちがこういうジレンマに遭遇することはほとんどないからです。でももしそれが必要な場合には、オンセが助けになってくれます。

これが彼らの販売する宝くじの意味なのです。彼らの宝くじを買うことは、単なる運試しではなくて、あなたが彼らに対してできる心情的援助でもあるのです。

さて、当時子供だった私は、母をバルセロナの本部に連れて行くという役割を持たされました。私たちはそのバルセロナに今も住んでいます。本部では各種手続きが行われます。売れ残った宝くじの引き取り、翌日の販売のためにオンセが割り当ててくれた宝くじの受け取りなどです。これらの手続きは、当時は今のようなテクノロジ—がなかったので全部手作業で行われました。オンセの人事部の人たちは本当に親切に仕事にあたってくれました。私はそこに行くのが楽しみになりました。

そこで、彼らは私にいろいろなことを教えてくれました。それは私がまだ幼かったのと、私が定期的に来るので常連になったことのためです。それから今はもうありませんが、当時はその同じ建物の中に、労働者の世話をする医療チ—ムがいたからです。彼らは今で言うところのかかりつけ医ですね。

今ではどの都市のオンセ本部に行っても医療チ—ムはありません。というのは相互医療保険がそれに取って代ったからです。

スペイン中の相互医療保険各センタ—の医師と看護師の一人一人に感謝します。それは彼らがバルセロナで私たちにしてくれたのと同じケアを、今でも行っていると確信しているからです。それは本当に親身を持ってやらないとできません。彼らは、解決できないことが事前にわかっている慢性疾患を患ってやってくるオンセの労働者たち、しかもみんな疲れてやってくる労働者たちを診療していたからです。これらの労働者たちは一定期限に一定の数の宝くじを売り上げなければならないというプレッシャ—に耐えながら働き続けなければならず、私はそれを外から見ながら時時不機嫌になりました。けれども彼らが笑顔を失うのを見たことがありませんでした。そして彼らはいつも私たちを元気づけようとしていました。

この私がじかに経験したこと、それから祖母が私に語ってくれたことが、今の私の基礎になっています。

何らかの解決策を提示すること、また適切な質問をすることはとても重要です。それがきっかけとなって、自分自身の中で何を変えたいのかが見えてくるからです。それは、いつも望ましい結果に導いてくれるわけではありませんが、少なくともその状況を切り抜けて前に進むよう押し進めてくれますし、最終的に自分が決めたことを目標の達成に導いてくれます。

彼らと一緒にいることで私は毎日それを学びました、それで私は個人的に彼らに心から感謝しなければなりません。彼らが苦しみ、克服し、ようやく今日の彼らになるまでに至った大変な困難を想像することは難しいでしょう。それでも彼らは不平も漏らさずにそれを成し遂げたのでした。それで私は、オンセの創始者から最後の労働者まで全員に感謝したいのです。

彼らがしている素晴らしい仕事に感謝しなければなりません。それはあなたがいつか彼らにお世話になるかもしれないですから。彼らはいつもそこにいてあなたに救いの手を差し伸べてくれるでしょう。ありがとうオンセ。

Chapter 2- 序章この手法について書くに至った理由

すでに皆さんがたくさんの本で読んで知っているテ—マをなぜ今さら私が説明する必要がありましょうか?あなた方の多くはすでに私の講演会かワ—クショップに参加したことがあるかもしれませんし、私の本を読んだことがあるかもしれません。もしそうなら、私の考えは特に目新しいとも思えないでしょう。

唯一の違いは、年令を重ね成熟し、時間の大切さを実感し、他人に何を任せたいのか見えてきたことです。

私はいつもチ—ムを作って働くのが好きでした。何よりも人人が自立していながら、協力することを学ぶのが好きでした。隣に何かに得意な人がいれば、いつでもその人から学ぶことができ、あなたも向上できます。

その人とライバル関係にならず、チ—ムを作って一緒に働くことができれば、より良い結果が得られ、より休息できて、より楽しく、より創造的な働き方ができるでしょう。

ただ、それはあなたが進化しないという意味ではありません。時が来て、チ—ムの中の1人が自分自身の幅を広げるために、チ—ムを出て最初からやり直すことに決めるかもしれません。こうして、毎日新しい始まりがあり、キャリアのはじめに戻ってまたリスクを冒し、同様な仕事仲間を別の場所に移っても作れるかどうか試すのも人生の定理なのです。

人生の大半は普通に過ぎますが、時には非常に困難な状況に出会い、時には非常に幸せな時があります。その中間の時期では、経験から利用できる部分は利用し、一方ではうまく行かなかった部分は、次の機会にはその部分を減らすように学んで行かなければなりません。

私は活発な子供でした。最初は一人っ子で、それから妹が生まれました。そして先に書いた母のことがあったのです。それまで私は責任のない自由な子供時代を過ごしていたのですが、突然成長しなければならなくなりました。そして物事を別の視点から見るようになりました。

その変化は小学校時代に起こりましたが、まわりのクラスメ—トたちはそのことに気づきませんでした。現在では教師や学校とコミュニケ—ションを取ることは盛んになっていますが、当時は状況が違っていて、家庭内で起こったことが直接私の性格や態度に影響しました。

クラスメ—トたちにとっては遊ぶことやスポ—ツが重要だったのですが、私には沈黙や読書が必要だったのです。

私が長年にわたって信頼を置いている手法の一つは、ハワ—ド・ガ—ドナ—の多重知能理論(MI理論)です。彼はその貢献によって、2011年アストゥリアス皇太子賞社会科学部門賞を受賞しました。学習に対する彼の見方を私も踏襲していて、それを固く信じています。

私は子供の頃から、自分が好きな分野の事柄は容易に学習できて、一方自分が嫌いな分野は完全に無視していました。もちろんこれは、私の嫌いな科目の先生たちには苛立たしかったでしょう。そうなるのも当然でした。その後家庭の事情から、両親は、私が将来に対して確信を持てない間は働きながら勉強するようにと教育しました。そのことに私はとても感謝しています。というのは、そのおかげで私は大変な苦労をしながらも、最終的に両親に、そして自分自身に対して、自分が本当に欲していたことは何かを示すことができたからです。

私に少しでも面識があるか、私が書いたものを読んだことがある人ならわかっていると思いますが、両親はそれぞれ違った考えを持っていました。一方はエネルギ—、直感、信仰、秘儀、奥義を信じていたのに対して、もう一方は全てに懐疑的で、何も信じていませんでした。私はそれを尊重しました。両親が私に頼んだ唯一のことは、私がそれについて話すのは家の中だけにして、家の外では将来のためになにか役立つことを勉強するようにということでした。加えて、私が少し反抗的だったことです。私の青春時代は全く容易なものではありませんでした。

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